熱い走り屋!日本発祥のドリフトは海外人気が高い理由
「ドリフト」は日本発祥のモータースポーツです。
古くからモータースポーツで使われているテクニックで、スピンをさせないようにカウンターステアを当てて、マシンをコントロールします。
爆音とタイヤスモークが巻き起こり、住民に被害が及ぶ可能性があるので、ある一定の場所でしかドリフトをすることは禁止されています。
1980年代、日本の峠で生まれました。日本のドリフトの第一人者と言われるのが、ドリキンこと土屋圭一氏です。
FIA(国際自動車連盟)が、ドリフトの世界統一レギュレーションを設定し、「FIA Intercontinental Drifing Cup」をお台場で開催しています。
チケットは公式HPで手に入れることができます。
⇒fiadriftingcup
今やドリフト大会が全国各地で開催されるだけでなく海外からも人気が高いものとなっています。
世界中の発狂的な若者がドリフトを見にお台場に集まってきますので、チケットはすぐに売れきれる可能性が高いため、早い者勝ちとなっています。
福島にあるドリフトの聖地「エビスサーキット」を知ってるかい?
福島の山奥に沢山の外国人が押し寄せています。
そこはドリフト好きが集まる聖地「ドリフトサーキット」があります。
エビスサーキットまでのアクセスは、最寄りのJR東北本線二本松駅から車に乗って15分。
入口付近から廃車寸前の車がいっぱい並んでいます。
海外ではこのような大規模な「ドリフトサーキット」はないので、日本人よりも海外から大勢の人がこのサーキット目当てにやってきます。
ドリフトをするには、ボロボロな車がちょうどいいといわれるのは、ぶつかるからです。けれど、サーキットのすぐそばに車の故障や修理をしている会社もあるため、安心してスピードを出して走ることができます。
最近では、テレビでも取材されたこともあって、ますます人気も加速しているんだそう。
「頭文字D」通称イニDはドリフト好きなら誰でも知ってる
ドリフトに欠かせないのが「頭文字D」です。
トヨタスプリンタートレノ(AE86)に乗る主人公が”公道最速”を目指して、成長を重ねてゆく物語です。
外国人がどうやってドリフトを知ったのかというと、実は「頭文字D」の漫画やビデオ・DVDを見てハマった人が多いようです。
英語にも翻訳されているので、特にアジアや欧米人がファンが多いです。
海外からはドリフトはとてもクールなものなんだそう。
土屋圭一氏
土屋 圭市(つちや けいいち、1956年1月30日 – )は、長野県小県郡東部町(現:東御市)出身の元レーシングドライバー。血液型B型。ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン」(ドリフトキングの略)とも呼ばれ、世界的に高い知名度を持つ。愛車はトヨタ・AE86、ホンダ・NSX-Rなど多数。
長野県出身。埴生高等学校卒業。高橋國光の日産・スカイライン2000GTに憧れて2000GTを購入。峠道での「走り屋」として腕を磨き、1977年に富士フレッシュマンレースでレースデビュー。以降倉田自動車と坂東商会のサポートを受けながら日産・サニー、トヨタ・スターレットを乗り継ぎ、ツーリングカー(いわゆる「ハコ車」)でのレースを中心に活動する。
ヨコハマタイヤ専属ドライバーとして、1984年の富士フレッシュマンレースではADVANカラーに包まれたトヨタ・スプリンタートレノで開幕6連勝を果たしたことで土屋の名は一躍モータースポーツの世界に広まり、また当時、「ADVANには足を向けて寝られない」と言い残すほどであり、現役末期の2002年までヨコハマの開発ドライバーとして活動した。
2000年にJGTCではARTAへと移籍。2003年からはブリヂストンの開発ドライバーにも抜擢。「BS(ブリヂストン)を履いて戦うということは、表彰台が約束されているということに他ならない」という言葉を残し、早速この年1勝、翌2001年はオーナードライバーだった鈴木亜久里の引退に伴い金石勝智にパートナーが代わるも、この年も1勝を挙げ、ランキング2位を獲得した。
しかしその後の成績低迷や、それまでの「ハコ」からフォーミュラカー仕様のパーツ構成へと変化するなど、高速化を続けるマシンに自らの体の限界を感じていたこともあり、2003年を以て引退した[2]。その後2017年にスーパー耐久にホンダ・シビック TCRで2戦した。